荒川支流 大石川 東俣沢 [朝日連峰]

[報告者] 瀬畑孝久
釣行日:2004/9/3〜9/5
メンバー:瀬畑雄三 、瀬畑孝久


 ―― もう何年も前のことになるが、 少しばかり思うことがあって、 人気ひとけのない険谷に選り好んで入り浸った時期があった。 恥ずかしながら家庭崩壊の故である。――  のくだりで始まる『新編渓語り/原始の火(つり人社刊)』 の舞台となった 大石川東俣沢に 2004 年 9 月の初旬、 親父と釣行を共にする機会に恵まれた。

 盆休みも終わり、 まだ休みボケも抜けきらないある日、 普段は電話などくれない親父から 「 9 月になったら一緒に釣りに行くか? 高久さんも誘っておけよ。 」 と、珍しく釣りの誘いがあった。 5 月に蕨やらウドなどの山菜を届けてくれた折、「 今年は何処か一緒に釣りに行こうよ。 」 と私の方から誘っていたのを思い出した。

 会社の同僚でもある高久さんに親父からの釣りの誘いのことを話すと、 理由は特に言っていなかったが 「 是非、 大石川の東俣沢に行ってみたい! 」 ということで釣行先が決定した。  しかし、 釣行の直前に高久さんの仕事の都合で日程が合わなくなり 、親子での釣行となったのである。 周囲の人達からは、 年に数回は親子で釣行しているように思われているようであるが、 実際は 9 年前の堀内沢釣行から数えて今回で 7 度目である。

 釣行の前夜、 駒込に居を構える親父と宇都宮の私の自宅で 22 時半に待ち合わせることにした。 「 5 時間程で着くだろ。 」 という親父の一言で、 東北自動車道を利用せず一般道で行くことになる。会津西街道で福島県の田島、 会津若松、 喜多方、 そして山形県小国へと向う道すがら、 有り余る程の時間を久しぶりに親子で話をすることができた。 親父がテンカラを始めた切っ掛けや様々な釣友との出会いの話などを聞いているうちに、 3 時過ぎには入山の拠点となる川入集落の「川入山荘」へと到着していた。 私たち親子が 42 年もの間、これ程までに話をしたことなどは無く、少しだけ親父の釣り人生に触れたような気がした。

 約 1 時間半ほど車中で仮眠をとり、 翌朝は 5 時に起床。 簡単な朝食を済ませ、 ザックのパッキングを施して身支度を整えると、   「 行くぞ! 」 と親父の気合の入った一声。 これから目指す大石川東俣沢は、 飯豊山地の杁差えぶりさし岳( 1636 b ) の東面を源頭として、 西面から流れる西俣川と大石ダムで出合い、 そして荒川へと交わる。 大石ダムから中ノ広河原までは限られた釣り人しか受け入れない厳しい川だ。 今回、その険しい区間は山越えでパスしようというのである。


 まずは、 川入山荘の側を流れる玉川支流西ノ俣沢から入渓する。 西ノ俣沢の遡行は快適で、 難所というものは全く無く、 暫く遡行すると高ボッチと呼ばれるコルが見えてくる。 それを見上げながら右から入る小沢を詰める。 小沢の水が枯れる頃から、 通称 「 上ノ境 」 と呼ばれる尾根へ追い上げられるように詰め上がっていく。  尾根へと続く斜面は傾斜が厳しく、 休憩するにも木の枝を掴んで立っているのがやっとだ。 木の枝にザックが引っ掛かり、 思う様に進むことができない。  標高差にして 10 b 先に見える尾根に中々辿り着くことができない。 64 歳になる自称 「 スーパーじじい 」 は、 私の横を黙々と登っていく。  「 こっちのルートの方が楽だぞ。 」 といわれても、 トラバースして親父の方へ行くこともままならない程の傾斜である。 親父に遅れること 5 分、 やっとの思いで尾根に出た。 疲労もピークとなり大休止とした。 ここから先は親父が名付けたという 「 ヨシノ沢 」 を一気に降り、  大石川東俣沢の滝下へと難なく降り立った。 下流部を伺うと、 一般の釣り人を寄せ付けないと云うだけあって、 かなりの険しさである。  早速二人で代わる代わる滝壷に毛鈎を打ち込んでみた。 毛鉤を沈めたり、 誘いを掛けたりしたが全く魚信アタリがない。 すると、 「 おかしいなぁ、 居ない訳ないんだがなぁ。 去年はこの滝壺だけで、 尺 2 寸混じりで尺上が 7 匹も釣れたんだがなぁ。 」 と親父が呟いた。 この言葉を聞いたときに、 チョットだけ不安がよぎった。 滝壷の探りは早々に諦めて竿をたたんだ。 「 テン場はこの滝上だから高巻いて行くぞ。 ここからは直ぐだから。 」 と言う。 親父の直ぐはあまり当てにはならない。 「 小一時間で着くから。 」 と言われても、 2 時間は掛かってしまうのである。 親父の 「 もう直ぐだよ。 」 の言葉に何度裏切られてきたか分からない。

 先程降りてきた 「 ヨシノ沢 」 を少し登り返し、 滝の左岸を大きく高巻くと 「 中ノ広河原 」 へと降りた。 テン場は中ノ広河原右岸の高台に取ることにした。 ブルーシートによるテン場を設え終えると、 親父が 「 夕方まで釣りに行ってこい 」 と言ってくれた。 そそくさと釣り仕度をして広河原に出ると毛鈎を振った。  1 匹目の岩魚を釣るまでは、 何故だか心が落ち着かない。 何処に岩魚が付いているのか、 どんなに綺麗な岩魚なのか、 想像するだけでワクワクドキドキしてしまう。  しかし、 暫く釣り上がってみるが一向に岩魚の姿が見えない。 この時期、 ヒラキやカケアガリに居るはずの岩魚の姿が見えないのである。 「 ヒョッとして、 今回の釣行は はずしたのか? 」 と滝壷での不安が頭を過る。 もう直ぐ中ノ広河原が終わろうとしたころ、 大石川の岩魚が毛鈎に飛び出した。 久しぶりの源流岩魚の引きを楽しんでから、 ラインを手繰たぐり寄せると 8 寸程の綺麗な魚だった。 広河原が終わりゴルジュが始まるまでは、 8 寸級の岩魚が入れ掛かりとなった。 今日は此処までとし、夕食の準備のためにテン場に居る親父のもとに小走りで向かった。


大石東俣のイワナを手に、先ずは記念撮影
河原でイワナ寿司を握る親父
イワナの握りと巻き寿司

 その夜、 焚き火を囲みながら酒を飲んでいる時に 「 渓語りに書いてあった ” 原始の火 ”  って、 この渓の出来事だろ?」 と尋ねると、 「 そう、正にこのテン場だ!ライターを無くしたことに気付いた時は青褪めたよ。 イタドリを石で叩いて繊維にしてから流木を擦って火を起こしたんだ。腕がちぎれんばかりに必死で流木を擦ったせいで頭がクラクラしたヨ。 」 と笑いながら話してくれた。 「 明日は魚止まで行くから、早起きするぞ。 」 という親父の一言と今日の遡行の疲れもあり、 早々にシュラフへ潜り込む。 ふと見上げると、 夜空には数え切れない程の星がまたたいていた。


 2 日目の朝、 眼覚めると渓は霧に包まれていた。 「 日中は晴れるだろう 」 という予想通り、 天気に恵まれて快晴となった。 昨日竿を出した所までは飛ばして行き、 中ノ広河原を過ぎた所で落差 5 b の 「 裏見うらみノ滝 」 が現れた。 滝裏の岩盤が深くえぐれ、 滝を潜ることができることからこの名が付いたという。 滝の手前の右岸を  1 時間を掛けて大きく高巻き尾根伝いに沢に戻ると、そこには 「 上ノ広河原 」 と呼ばれるテンカラパラダイスが広がっていた。  「 ここから竿を出すか? 」 という親父の言葉を合図に、 穂先のリリアンにラインをセットするのももどかしく 4 b のテンカラ竿を継いでいく。 そして清冽な流れに毛鉤を打ち込むと、ポイント毎に橙の斑点も鮮やかなニッコウイワナが飛び出してきた。 親父は右岸を、 私が左岸を釣り上がる。


東俣の清冽な流れに毛鈎を打つ親父


 すると親父が珍しく何度も毛鈎を打ち返している。 「親父、 どうした? 」 と声を掛けると、 「 魚は居るんだが、毛鈎を食わない! 」 と対岸で叫んだ。  対岸へ渡って行くと 「 大きい毛鈎を付けてるのか?魚が出るかもしれないから、今度はお前がやってみろ!」 と言う。  ヒラキで悠然と泳いでいる岩魚めがけて竿を振る。すると、5.5 bの黄色いラインが 「 スッ 」 と一直線に伸びていった。  そして魚の横に毛鈎を落としてやると、 岩魚が 「 スーッ 」 と下流へと回り込んで毛鉤を銜えるのが見えた。 それを確認してから合わせをくれた。  「 ゴツン!グググ―ッ!」。 心地良い手応えが竿を通して伝わってきた。 そして私は得意気に 「 ホラ、一発だ! どうだい、 俺もテンカラが上手くなったかい?」 と尋ねると、  滅多に褒めてくれたことの無い親父が 「 ああ、上手くなった! 」と日焼けした髭面を皺くちゃにして笑いながら答えた。


良型を手に心はご機嫌な私


 それから二人で魚止めを目指し、 テンカラ竿を振り続けた。 無垢な岩魚たちが、 私たちの毛鈎に飛び出してきた。  釣り上げる度に綺麗な岩魚を眺めては、 「 子孫をたくさん残してくれヨ 」 と祈りながら流れに戻した。 親父もまた、 愛しむように岩魚を眺め、 やさしく流れに戻している。  親父は何を思い、 魚を放しているのだろうか。
 上ノ広河原では 前日の不安を忘れるほどの充分な釣果に恵まれた。 子供の頃には一緒に遊んでくれることが少なかった親父だったが、 やっと相手にしてくれるようになった。  この大石川東俣沢もまた、 私にとって忘れることのできない思い出深い渓の一つとなった。


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